古いネガアルバムに残っていた,1963年=昭和38年1月豪雪時の、長岡操車場の記録写真です。60年近く前の写真で、撮影者も既に故人となっておりますが、鉄道の雪との戦いの記録として、画像をデジタル化して残しました。
この三八豪雪のころは、雪をかき分けるラッセル車が主力で、排雪も人力や流雪溝、貨車輸送でした。その後、ロータリー除雪車の開発も進み、電熱によるポイントヒータや、地下水散水によるポイント消雪施設も整備され、鉄道の雪への耐性が格段に向上しました。
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2021年、1年前のお盆に、8年前に他界した父の遺品を整理していたら、年代物のトランクの中から、古い白黒写真のネガを100本近く見つけた。昭和33年から昭和45年の間に撮影されたフィルムである。
父は、若いころから写真が趣味で、自宅の4畳半を毛布で締め切り、簡易的な暗室を作りフィルムも自分で現像していた。
昭和38年1月のネガフィルムを透かしてみると、白い雪に埋まった、黒い蒸気機関車のようなものが写っている。詳しい中身を見るため、ネットでフィルムスキャナーを注文し、ひとコマづつ手作業でスキャンし画像ファイルに変換した。
しかし、その後、仕事も忙しくなり、画像の整理は中断していた。
1年ほどして、38豪雪のwebページの写真を見た放送関係の方から、当時の豪雪を体験した人の肉声を取材したいとの問い合わせがあった。
しかし、昭和38年(1963年1月)から現在の平成4年(2022年)まで59年の歳月が流れている。長岡市内の雪の写真を残した、会社の先輩は人物不詳であるし、長岡操車場の写真を残した筆者の父(大正14年-1924年-10月1生まれ。当時38歳)も、9年前に89歳で他界している。父の同僚の方々も、既に多くは訃報通知を受け、もし存命でも、当時30代なら今は90~100歳で、当時の体験を語れる人を探すのは難しい。
何か写真以外の記録はないかと探すうちに、父が毎日欠かさずつけていた日記帳を思い出した。応接間の奥の棚を探したら、30冊余りの日記帳を見つけた。
父の日記は、昭和32年(1957年)の1月1日から、平成25年(2013年)12月15日死去の3日前まで57年間は、1日も休まずに書き続けられていた。内容は「日記」というより、日々の出来事を淡々と記した「日誌」に近いものであり、3分の1くらいは、毎日の仕事の内容を簡潔にまとめた、業務日誌でもあった。
この、日記と写真を元に、当時の国鉄の長岡操車場(現在の南長岡駅)の38豪雪をたどる。
新潟県長岡市 長岡操作場(現在の南長岡駅)
長岡駅の南側(東京寄り)で、新潟〜東京を結ぶ上越線と、大阪〜金沢方面〜から来る北陸本線の合流点にあった、貨物ヤード兼車両基地であった。
国鉄社内では、操車場を含む貨車の入換作業を行う駅を組成駅と総称しており(Wiki 日本の貨車操車場より引用)」、長岡操車場は、本社指定の組成駅であった。
当時、上越線は電化されており、合流する北陸本線は蒸気機関車であった。ここで、貨物列車の再編成や、機関車の付け替えが行われていた。構内には、貨物専用の南長岡貨物駅もあり、当時の新潟県中越地域の貨物輸送の中心であった。
佐藤国二(くにじ)
大正14年10月1日生まれ。当時39歳。長岡操車場勤務。
38豪雪の時は、最初古い2眼レフカメラを使い、大判の120フィルム,6×6cm版で撮影していたが、後半は豪雪撮影用に35mm白黒フィルムを購入し、写真のMAMIYAのカメラを利用していた。
基本24時間勤務(休憩、仮眠含む)だいたい、午前8時半頃に勤務を開始し翌日午前8時半まで勤務。翌朝が非番で翌々日が公休というのが基本的な勤務体制で、たまに日勤(だいたい普通の会社と同じ様な時間を勤務)、夜勤(午後5時半ぐらいから翌朝午前8時半まで)と公休の連休が入りローテーションが変動していきます。非番中に研修などもあったりします。多少、時間の前後があるととは思いますが。
日記によると、非番の休暇中にも駅に出向いて、雪害の記録写真を撮っていたようである。
以下、日記の内容と、写真を時系列でまとめた。
昭和38年の1月は、最初1月11日(金)から雪が多くなり、1月19日(土)ころまで列車の遅延が続いた。この時の最大積雪深は120cm程度であった。
日記では、この期間、休日に2回ほど駅に出向いて、雪害の写真を撮っている。ただ、この時の雪害は、1月23日以降の、いわゆる「三八豪雪」に比べれば、まだまだ少なかった。
●昭和38年1月 11日(金) テ(下実) 雪長岡駅前の大通り。両側に雪が積まれ、真ん中をかろうじてバスが走る。 | 長岡市の新天街(長岡駅前の大手通2丁目〜坂之上町1丁目方向)の積雪。 | 雪の降りしきる市街地。通りの1階の雁木部分は完全に埋まり。 | 屋根の雪下ろしと道路除雪で積上げられた雪の壁。 |
昭和38年の1月は、最初1月11日(金)から雪が多くなり、1月19日(土)ころまで列車の遅延が続いた。この時の最大積雪深は120cm程度であった。
日記では、この期間、休日に2回ほど駅に出向いて、雪害の写真を撮っている。ただ、この時の雪害は、1月23日以降の、いわゆる「三八豪雪」に比べれば、まだまだ少なかった。
【積上げられた雪】雪の晴れ間の、高く積まれた雪の壁の上から通りを見下ろした状況です。 | 2階の屋根から下ろした雪で、玄関が下に。当時の除雪器具は、鉄製スコップと樋。 | 下の玄関から上の道路を見上げた状況。雪に階段が切ってあります。 | 玄関に掘られた雪のトンネル。上に一升マスで作った表札が埋め込んであります。 |
2階の窓が玄関になり、表札や郵便受け・国旗の小旗も移設してあります。 | 雪で窓が埋まり、昼でも電灯をつけていました。コタツの熱源は練炭です。 | 雪で埋まった鳥居の前で遊ぶ子供たちの写真です。奥に佇む犬の姿も見える。 | 写真の旗ざおの「征一位稲荷大明神」の場所は見つからず。 |
雪で詰まった下水の水をエンジンポンプで排水しているのではないか想像。 | 初期のころの消雪パイプでしょうか?ちなみに消雪パイプは昭和36年に長岡市で始まった。 | 上から水を撒くので、水温が下がり消えは悪いようです。現在の消雪パイプは路面に直接水を撒きます。 | 家から通りに出るために雪のトンネルが掘られた。 |
ネット上の38豪雪の自衛隊の記録は、僅かです。1月24日の信越線・上越線の全面運休の後、1月28日未明の上野行き列車の出発に、自衛隊が線路除雪に協力しています。 (⇒外部リンク:三八豪雪と急行越路-大寒と55年前の急行列車) また、陸上自衛隊航空科部隊は、昭和38年1月29日にヘリコプター隊が霞ヶ浦から出動、新潟・金沢・福井の3ケ所にH-19×1機づつ派遣されたとの記事があります。(⇒外部リンク:38豪雪ヘリコプター救助活動の記録)
【災害派遣】陸上自衛隊の災害派遣部隊が、雪上車を先頭にジープで長岡入り。三国峠越か、会津回りかは不明。 | 雪上車の横に「第7師団、災害派遣」の文字が見えます。他地域にも多数隊員が出動。 | 校庭に着陸した陸上自衛隊のH-19ヘリコプター。右端の国旗掲揚ポールに臨時の吹流しも。 | 上越線・信越線の列車も長期間立往生。線路の流雪溝に詰まった雪を自衛隊員が排除。 |
スコップを持って、雪掻き出動前の、陸上自衛隊員の皆さん。 | 除雪隊員への炊出し風景。白い割烹着と黒いサングラスが印象的。 | 自衛隊への、炊き出し風景をもう一枚。お握りと味噌汁が定番。 | 当時は雪で水路が埋まり洪水も発生したと聞く。水路を掘る自衛隊員か。 |
自衛隊の作業時の写真では雪も落ち着いているので、2月初旬の長岡市内と考えられます。
近年では、大雪の時の自衛隊の災害はめずらしくありませんが、それまでは「春になれば解ける雪」に災害救助法の適用はありませんでした。当時、大蔵大臣だった、新潟県選出の田中角栄が三八豪雪で初めて災害救助法を適用させたそうです。
38年当時、自衛隊が火炎放射器を使って、雪を消そうとしたが、炎の当たった部分だけ雪に穴が開き、効果が無かったという、話を聞いたことがあります。以前、そのような写真を見た記憶もありますが、残念ながら画像は見つかりませんでした。
三八豪雪に関係して、参考になる画像や関連リンクをまとめました。
雪が無いときの長岡駅前通りの風景です。(昭和34/06/05撮影-1959年)
雪が無いときの長岡駅前の大手通り。奥が長岡駅。分離帯にチューリップ花壇がある。 | 長岡駅前のロータリーと大通り。中央の銅像は、平和の森公園に移設された。 | 長岡駅前通りの拡大。最初の写真の反対側から見た写真。 | 長岡市内を流れる福島江。信濃川の水を引く灌漑用水ですが、冬は流雪溝の水に使われる。 |
長岡市中心部を流れる信濃川に架かる長生橋。1937年(昭和12年)完成から22年後の風景。(昭和34/04/20撮影-1959年)
長生橋の上を乗り合いバスが走っている。 | 長生橋の西詰(左岸側)。歩行者と車が混在。 | 現在ある下流側の歩道はまだ無い。 | バイクが真ん中を走っています。 |
下記は、このページをまとめる際に参考にした、外部リンクです。
⇒[PDF] 38豪雪災害の記録 | ながおか防災ホームページ